「失われた10年」の再検証と日本再生への道
東京大学社会科学研究所の全所的研究プロジェクトが完了
橘川武郎, 16.01.2005


第1章
東京大学社会科学研究所(Institute of Social Science, University of Tokyo)が2000年度から取り組んでいた全所的研究プロジェクト「失われた10年? 90年代日本をとらえなおす」(英語タイトル: The Lost Decade?: Re-appraising Contemporary Japan)が、2005年3月末をもって完了する。このプロジェクトは、次のようなテーマを掲げる12のグループ研究から構成されている。

 ○「日本企業と産業組織」(研究代表者:橘川武郎Kikkawa Takeo・工藤章Kudo Akira、以下同様)

 ○「日本経済と産業組織」(松村敏弘Matsumura Toshihiro・佐々木弾Sasaki Dan・中村民雄Nakamura Tamio)

 ○「大企業ホワイトカラーの人事管理と業務管理」(中村圭介Nakamura
Keisuke)

 ○「教育と若年労働市場の変容」(石田浩Ishida Hiroshi)

 ○「グローバライゼーションと福祉国家:生活保障システムの比較総合研究」(大沢真理Osawa Mari)

 ○「福祉国家と住宅」(佐藤岩夫Sato Iwao)

 ○「先進国の中の日本政治変化」(樋渡展洋Hiwatari Nobuhiro・平島健司Hirashima Kenji)

 ○「国際秩序の変容と日本」(樋渡展洋Hiwatari Nobuhiro・石田淳Ishida
Atsushi)

 ○「90年代日本の思想変容」(平石直昭Hiraishi Naoaki・宇野重規Uno
Shigeki)

 ○「開発と市場移行のマネジメント」(中川淳司Nakagawa Junji)

 ○「自由化と危機の国際比較」(末廣昭Suehiro Akira・小森田秋夫Komorida
Akio)

 ○「中国の移行経済体制」(田中信行Tanaka Nobuyuki)

東京大学社会科学研究所の研究プロジェクト「失われた10年? 90年代日本をとらえなおす」には、9ヵ国11箇所の海外研究協力機関と、14ヵ国50名の海外研究協力者が参加した。一方、2002年11月にヴィッテンベルグで行われたドイツ語圏の現代日本社会科学学会(Vereinigung fuer sozialwissenschaftliche Japanforschung)の年次総会、および2003年4月にシェフィールドで行われたイギリス日本研究学会(The British Association for Japanese Studies)の年次総会では、このプロジェクトの成果がテーマとして取り上げられ、グループ研究代表者が複数名、ゲストスピーカーとして報告を行うとともに、その内容をまとめた論文を現地発行の学術書や学術誌に発表した(Kikkawa, T., “Japanese corporations in the 1990s: The end of the ‘Japanese style’ management? ”, in Gesine Foljanty-Jost ed., Japan in the 1990s: Crisis as an Impetus for Change, LIT VERLAG, Münster, Germany, 2004, Hirashima, K., “Political immobilism, economic malaise, and institutional changes: Japan’s political economy in the lost decade”, in Foljanty-Jost ed., op. cit., and Kikkawa, T., “Toward the rebirth of the Japanese economy and its corporate system”, in Japan Forum, Vol.17, No.1, Routledge, UK, 2005)。また、これとは別に、プロジェクトに関連する国際コンファレンスを、日本だけでなくドイツ、イギリス、ブラジル、中国、韓国などで開催した。

 なお、「失われた10年? 90年代日本をとらえなおす」プロジェクトを構成する各グループ研究の成果をまとめた学術書は、次のとおりである。

 ○樋渡展洋・三浦まりMiura Mari編『流動期の日本政治』東京大学出版会University of Tokyo Press、東京、2002年。

 ○星野妙子Hoshino Taeko編『ファミリービジネスの経営と革新』アジア経済研究所、千葉、2004年。

 ○工藤章・橘川武郎・グレン=フックGlenn Hook編『現代日本企業』全3巻、有斐閣Yuhikaku、東京、2005年(forthcoming)。

 ○中村圭介・石田光男Ishida Mitsuo編『ホワイトカラーの仕事と成果-人事管理のフロンティア-』(仮題)東洋経済新報社、東京、2005年(forthcoming)。

第二章
東京大学社会科学研究所は、現在、「失われた10年? 90年代日本をとらえなおす」プロジェクト全体を総括する学術書の刊行を準備中である。書名は、仮題であるが、『「失われた10年」を超えて』が予定されており、2巻構成で、東京大学出版会から2005年中に出版される見通しである。ここでは、同書のねらいと構成、方法上の特徴を概説する。

 日本にとって1990年代は、経済の停滞と政治の迷走とによって特徴づけられる「低迷の10年」であっただけでなく、危機に陥った従来の社会システムを改革する機会を逸した「失われた10年」でもあったと言われている。その1990年代が終り、2000年代にはいって、すでに5年の歳月が経過した。しかし、今日になっても、諸改革の必要性が声高に叫ばれる状況に変りはない。このような閉塞状況が継続しているのは、①改革が進展していないか、それとも、②改革が進展しているにもかかわらずそのことが社会的に認知されていないか、のいずれかである。①であるか②であるかは、領域ごとに異なるであろう。

 改革が進展していない領域では、打ち出された改革の処方箋の妥当性を検証することが重要である。改革策は、1990年代の日本で生じた事態を正確に理解したうえで、提起されたものだったか。選択肢の設定・選定や改革の手順は、適切だったか。我々は、これらの論点に切り込まなければならない。

 改革が進展しているにもかかわらずそれが社会的に認知されていない領域では、改革の成果を評価し、その意味について発信することが求められる。このような評価・発信は、当該分野での改革を深化させるうえで、大きな意味をもつ。

 本書『「失われた10年」を超えて』において我々は、上記のような状況認識に立って、1990年代以降の日本社会の変容・不変容を実証的に分析し、そこで行われた対応行動・制度変更を論理一貫性ある視座から評価する。そして、あるべき選択肢と改革の筋道を改めて明示することをめざす。

 本書は、「失われた10年」の危機的様相が集中的に現出した経済・企業システムについて検討する第1巻と、政治システムを主たる分析対象とし、制度変更と変化の担い手に光を当てる第2巻とによって、構成される。各巻の章別編成は、次のとおりである(書名、章タイトル、章の順番とも変更の可能性あり。カッコ内は執筆者名)。

○『「失われた10年」を超えて第1巻:危機の実相』

 序 章 課題と視角(橘川武郎)
  第1章 日本経済の危機の本質(橘川武郎)
  第2章 金融危機と銀行の所有構造
(花崎正晴Hanazaki Masaharu・Yupana Wiwattanakantang
相馬利行Soma Toshiyuki)
  第3章 成果主義:揺らぐ評価とその行方(中村圭介)
  第4章 「産業空洞化」と中小企業(橘川武郎)
  第5章 規制改革とその影響(小川昭Ogawa Akira・松村敏弘)
  第6章 逆機能に陥った日本型生活保障システム(大沢真理)
  第7章 「アジア化するアジア」と新たな国際分業体制(末廣昭)
  終 章 「失われた10年」以降の日本企業(橘川武郎)

○『「失われた10年」を超えて第2巻:課題と対応』

 序 章 対応課題:先進国比較の中の日本(樋渡展洋)
  第1章 市民セクターの成長と国家・市民関係(佐藤岩夫)
  第2章 Japanese political leadership and structural reform
(Gregory W. Noble)
  第3章 三位一体改革による中央・地方関係の変容
(北村亘Kitamura Wataru)
  第4章 長期経済停滞下の財政運営と銀行部門再建(樋渡展洋)
  第5章 改革の中の逸脱:労働政策(中村圭介)
  第6章 産業政策(Gregory W. Noble)
  第7章 空洞化する社会的セーフティネット:
社会保障改革の失われた15年(大沢真理)
   第8章 対外経済関係:
日米構造協議から東アジア共同体へ(中川淳司)
  第9章 相互依存と安全保障(樋渡由美Hiwatari Yumi・樋渡展洋)
  終 章 ミクロ的危機とマクロ的安定の間で(樋渡展洋)

 本書の研究方法上の特徴としては、二つの点を指摘することができる。それは、実証性と論理一貫性である。

 「失われた10年」と呼ばれた1990年代以降、日本社会が直面することになった危機の本質を理解し、その解決策を見出すためには、まず、実際に何が起き、何が起きなかったかをみきわめることから出発しなければならない。また、提示された危機克服の処方箋が適切であったか否かを判定するためには、その内容と実行プロセス、帰結について、濃密な観察を行う必要がある。本書は、このような見地に立ち、実証性に重きをおいて諸問題に接近する。そして、具体的な問題解決策を提示する場合にも、それが実態に即したものである点を、とくに重視する。

 一方、本書が論理一貫性を強調するのは、1990年代以降の日本について否定的な評価が支配的である現在の状況と、日本的諸システムに対する肯定的な評価に満ち溢れていた1980年代までの状況とが、あまりに対照的だからである。社会科学に携わる学徒として、このような評価の場当たり的急転換を放置することは許されない。日本の社会システムに関して、1980年代までと1990年代からとを一貫した論理で説明しうる視座を提示することは、日本の社会科学者が等しく負うべき重大な責務なのである。

第三章
最後に、現時点で内容がほぼ固まった『「失われた10年」を超えて第1巻:危機の実相』の内容を、簡単に紹介する。

 序章は、「失われた10年」のシンボルとして論及された問題の多くが日本の企業システムや経済構造にかかわるものであったことに注目し、第1巻が、これらの問題群の解析を課題とし、問題に即した構成をとっていることを明らかにする。第1章~第7章で取り上げる問題は、日本の企業体制、金融システム、雇用慣行、中小企業、規制改革、生活保障システム、アジアでの経済的役割である。企業体制全体に目を向けた第1章は、1973年の石油危機以後の30年間にわたる日本経済の局面変化について、生産システムは一貫して頑強だった反面、金融システムは一貫して脆弱であったとする説明モデルを提示し、1990年代に顕在化した日本経済の危機の本質は金融危機であると論じる。その金融システムを検討した第2章は、日本の銀行が同業者や保険会社を株主に据えることによって、リスキーな貸付を行う「エントレンチメントentrenchmentの状態」に陥っていたことを明らかにし、それが金融システム危機の大きな要因になったと指摘する。雇用慣行を取り上げた第3章は、ホワイトカラーの成果主義的報酬制度について、業績向上の「魔法の杖」とはならないが、高齢化社会へ向けた人事制度改革の一方策とはなりうるとし、その成否は仕事管理のあり方によるところが大きいと説く。中小企業を分析対象とした第4章は、国際分業の深化、開業率の低迷、信用力の後退、という日本の中小企業をめぐる三つの構造的問題を指摘し、市場と産業集積をつなぐリンケージ機能の更新、創業に不可欠な経営資源の不足分を補完するネットワークの構築、地方版メインバンクシステムの形成が、それぞれの問題の解決策になりうると主張する。規制改革に光を当てた第5章は、公益産業の自由化や特区制度の導入などのプロセスや成果を検証したうえで、この領域に関してみれば、1990年代は改革が着実に進み始めた「成長への助走期間」と評価することができるとし、問題の焦点が「規制緩和」ではなく、より良い規制への組替え、「規制改革」にあることを明らかにする。生活保障システムを論じた第6章は、「男性稼ぎ主」型の家族と企業という二つのサブシステムに支えられてきた従来の日本の生活保障システムが、1990年代以降逆機能に陥り、「少子高齢化のスパイラル」を引き起こしたメカニズムを析出する。日本のアジアでの経済的役割に焦点を合わせた第7章は、東アジア域内における経済面での相互依存度の高まりと水平的・相互補完的な国際分業の進展を検証し、1997年の通貨危機後の時期に日本が「地域としてのアジア」への関与を本格化したにもかかわらず、その主導権は後退したことを明らかにする。

 各章の結論をふまえれば、先述した①の改革が進展していない領域としては金融システムと生活保障システムを、②の改革が進展しているが社会的認知が十分でない領域としては規制改革を、それぞれあげることができる。雇用慣行については、必要とされる改革(仕事管理の充実)が端緒についたという意味で②の領域に含めることができるが、成果主義的報酬制度が業績向上の「魔法の杖」とならなかった点に注目すれば、適切でない改革策が現実によってチェックされた側面を強調すべきかもしれない。そのことは、企業体制のうちの生産システムが、基本的には頑強さを維持し、抜本的な改革策を必要としなかったことに通じる。強い生産システムに依拠して日本企業は、規模の大小を問わず、アジアで広がった水平的・相互補完的な国際分業に参画していったのである。

 各章の分析結果にもとづいて、終章は、日本経済と日本企業を再生させる方策を明示する。それは、

 (Ⅰ)事業会社が、エクイティ・ファイナンスのノウハウを身につけること、

 (Ⅱ)金融ビジネスの改革を進め、①国際競争力をもつユニヴァーサル・バンクと、②きめ細かなモニタリング能力を発揮する優良地方銀行という、2本柱を確立すること、

 (Ⅲ)製造業が、高付加価値化と結びつけて、国際分業を深化させること、

 (Ⅳ)製造業とサービス業との新たな結合を実現すること、

 (Ⅴ)市場に潜在する民需を顕在化させるサービスビジネスや流通ビジネスを開拓すること、

という、5点にまとめることができる。

[文責:橘川武郎 (Kikkawa Takeo, 東京大学社会科学研究所教授)、2005年1月16日]
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